トーキョーナガレモノ

日本映画の旧作の感想。でもそのうち余計なことを書き出すだろう。

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土曜は寅さん!(6): 男はつらいよ 純情篇(その2)

(承前)

夕子(若尾文子)はとらやまで迎えに来た夫と共に出直すことを決意し、柴又を去って行く。寅次郎もまた、振られたその日のうちに柴又駅のプラットホームに立つ。見送りきたさくらと、ベンチで電車を待っている。 

さくら  ねえお兄ちゃん、もうお正月も近いんだしさ、せめてお正月くらい家に居たっていいじゃない。

 

寅次郎   そうはいかねえよ。俺たちの稼業はよ、世間の人がこたつに入ってテレビ見てるときに、冷てえ風に吹かれて、鼻水たらして声をからして、ものを売らなきゃならねえ稼業なんだ。そこが渡世人の辛えところよ。(電車が近づいてくる) みんなによろしくな。博と仲良くやるんだぞ。じゃあな、さくら。

 

さくら  あのねお兄ちゃん、辛いことがあったら、いつでも帰っておいでね。

 

寅次郎  そのことだけどよ、そんな考えだから俺はいつまでも一人前に・・・故郷って奴はよ、故郷って奴はよ・・・(電車のドアが閉まり、寅次郎のセリフはかき消されてしまう)

 

さくら え、何? 何言ってるの?

 

録画から台詞を書き取っていて不覚にも涙がこぼれた。

 

そういえば本作で寅次郎が柴又に帰ってきたきっかけは、故郷を捨てて駆け落ちしたものの、生活が破綻して失意のうちに長崎の五島に逃げ帰る女・絹代(宮本信子)とその父・千造(森繁久彌)の和解を仲立ちしたのをきっかけに、自分もつい柴又に帰りたくなったからだった。だが帰った先に待っているのはいつもの失恋である。故郷にふらりと帰ってきては恋破れて恥を晒す。そして俺は半人前だと傷心を抱えて旅に発つ。彼の人生はその繰り返しだ。

 

寅次郎は軽口はよく叩くが、弱音を言葉にすることは滅多にない*1。これが渡世人の稼業だからと強がりを言って、ひとり故郷を去ることそのものが、彼なりの弱音の表現だ。さくらの暖かさについ漏らしそうになった弱音も、電車のドアに遮られて呑み込まざるを得ない。

家族や街の人々がいつでも迎えてくれることを知りながら、そこに甘えて帰ってみれば、それは同時にまた再び失恋の試練に遭うことを意味する。寅次郎にとって帰郷することは、次の孤独な旅の出発点に舞い戻ることとほぼ同じだ。そしてその辛さを口にして誰かに癒やしてもらうことがなぜかできない、そういう人なのだ。ぬくもりと試練の両方をもたらす故郷の二面性を、この場面で寅次郎は感覚的に悟っていたのだろう。

 

「望郷篇」は前作のサブタイトルだったが、本作「純情篇」のこのシーンには寅次郎という男の望郷心が抱えるジレンマを描く名場面である。そういう意味では本作こそ「望郷篇」のサブタイトルをつけたいところだ。(了)

*1:これが東映任侠映画の鶴田浩二高倉健になると「絶対にない」