トーキョーナガレモノ

日本映画の旧作の感想。でもそのうち余計なことを書き出すだろう。

注意)本・DVDなどへのリンクはAmazonのアフィリンクです。ご了承下さい。過去記事一覧はこちらです。

吹けば飛ぶよな男だが

  「「空気」の研究」などの日本人論で知られる評論家・山本七平に、こんな文章がある。これは山本の死後刊行されたエッセイ集「静かなる細き声」(1992)からのもの。

 

 近頃はほとんど耳にしなくなったが、私が子供のころには「ヤソ」と言う一種独特の語感がする言葉があった。ヤソとは耶蘇のこと、イエスを中国語に音写した漢字の日本式な読み方である。

 

  理屈から言えばヤソとはイエスのことで、この言葉自体には特別な意味はないのだが、言葉というものはしばしば、その原意とは無関係にある意味をこめて用いられる。

 

 昔の「ヤソ」という言葉には「非難すべき対象」といった意味があり、「あいつはヤソだぞ」という言葉は一種の差別用語であり、「ヤソ、ミソ、テッカミソ......」と言ったような侮蔑的な意味もあった。

 

 だが私にとって少々不思議だったのは、その言葉が「ヤソ」だったことである。徳川時代にはキリシタンは禁止のはず、また明治以降にキリスト教に接した人は「ヤソ」という言葉はほとんど知らないはず、現にその言葉を口にしている人でさえ、それが「イエスの漢字転写の日本式読み方」とは知らないのが普通であった。私にはそれがいつも不思議であった。

 

 戦争が終わって、徳川時代の思想を調べだしたころ、私は、驚くべき事実を知った。

 

 と言うのはこの「耶蘇」という言葉は、徳川時代にはちょうど戦時中の「アカ」や戦後の「反動・右翼」のように、時の知的権威者が自分の気に入らない者にはりつけるレッテルとして使われていることを発見したのである。そしてこのレッテルはりの権威者こそ幕府の儒官であった林道春であった。いわば官学が、自己への批判を封ずる手段として「耶蘇」を使ったのである。

 

クリスチャンの家に生まれた山本には、「ヤソ」の侮蔑的ニュアンスがとりわけ気になったのかもしれない。

 

若いチンピラ・サブ(なべおさみ)と家出娘・花子(緑魔子)の短く哀しい恋を描いた「吹けば飛ぶよな男だが」(山田洋次監督・1968年松竹)にはこんな場面がある。

 

サブたちと奇妙な縁で知り合った中年教師(有島一郎)の口から、花子が妊娠していることを告げられるサブ。おそらく妊娠五ヶ月。だがサブと知り合ったのはほんの数日前。父親がサブであるはずはない。すぐに堕ろさせろと息巻くサブを、先生は必死で止めさせようとする。いやサブ君、それができないから花子君は苦しんでるんだよ。あの子はカソリックだから・・・じゃあ何か先生、あの娘はヤソだってのか

 

花子の故郷は九州の片田舎。素朴なマリア信仰を守ってきたらしいこの土地で望まない妊娠をさせられ、カトリックであるがために堕胎することもできず一人で苦しんだ末に故郷を飛び出した、という花子の家出の真相がここで明らかになる。だが無知なサブは花子を愛してはいるものの、彼女が抱える戒律の重さは理解することができず、中絶させろと喚くばかり。あげくに自棄を起こして傷害事件で拘置所入りとなる。面会に訪れた花子とサブは二人して泣きじゃくる。

 

この作品を観て驚いたのは、どう見ても学も教養もなさそうなサブが、「耶蘇」という歴史用語を何気なく使ったからだ。正確には、上記の山本七平の本を通じて、それがかつて差別的ニュアンスを持つ日常語であったことを知るまで、自分の中で「ヤソ」は歴史用語集の中にしか存在しない言葉だったからだ。つまり日常語としては死語である。

 

セリフに込められたニュアンスも時代が変われば受け取られ方は変わっていく。サブの言った「ヤソ」は、なんとなくキリスト教徒」というほぼ原義どおりの意味で使われていて、あまり侮蔑的なニュアンスは感じられないように思える。がそれは、(なにしろ山本が上記の引用で「ほとんど耳にしなくなった」と書いてからすでに20年が経過しているのだし)我々の感覚が変わってしまっただけなのかもしれない。

 

あの頃映画 「吹けば飛ぶよな男だが」 [DVD]

あの頃映画 「吹けば飛ぶよな男だが」 [DVD]