トーキョーナガレモノ

日本映画の旧作の感想。でもそのうち余計なことを書き出すだろう。

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小野田寛郎という現象

小野田寛郎氏が亡くなった。ご冥福を祈ります。

訃報:小野田寛郎さん91歳=戦後も比の山中に29年 - 毎日新聞

東京新聞:小野田寛郎さん死去 孤独耐え30年 最後の帰還兵:社会(TOKYO Web)

小野田氏は旧日本陸軍の諜報員の養成機関として有名な陸軍中野学校で短い訓練を受けフィリピンに派遣、45年の終戦の報を敵の情報工作だとして信じず、投降を拒否して29年もの間ルバング島の山中に潜伏した後74年に帰国、その後ブラジルに移住し、84年から日本の子供たちのために「小野田自然塾」を主催していた。

 

2005年、仕事でマニラにしばらく滞在していた折、NHKのBS放送でミンダナオ島に残留日本兵がいるらしい、というニュースが流れたことがあった。結局はデマだったことが判明したが、東京の同僚には「ちょっとミンダナオ行って日本兵探してくる」と冗談をメールしつつ、これが事実なら東京はまた拍手喝采で迎えるんだろうなとぼんやり考えていた。

 

小野田氏の帰国時の熱狂は、当時幼かったながらもかすかに記憶している。飛行機のタラップを降りる姿、旗を振る群衆の映像。それは自分の中では日本がかつて戦争をしていた事実の原初的な記憶の一つであり、その当事者が一種の浦島太郎として現代に帰還した事への驚きだった。

 

なぜ小野田氏は当時、あれほど熱狂的に迎えられたのかを掘り下げて考えるために、林栄一「残留日本兵」という本を取り上げてみたいと思う。

残留日本兵 - アジアに生きた一万人の戦後 (中公新書)

残留日本兵 - アジアに生きた一万人の戦後 (中公新書)

 

 本書がまず指摘するのは、海外各地に派遣された日本兵のうち、終戦後も現地にとどまり続けた者が少なくなかったという事実である。その数は約一万人と推定されるが、現地残留の理由が判明している者は少ない。僅かに判明している氏名から調査していくと、残留の理由もまた様々である。東南アジアの植民地解放闘争に身を投じた者、中国の国共内戦に協力した(させられた)者、戦犯として処刑されることを恐れた者、収容所生活が嫌になり脱走した者、現地に家族を作ってしまった者。

こうした残留兵は現地社会への参加という形で自ら残留の道を選んだが、50年代にアジア諸国が国民国家体制を整えていくと、現地政府の方針で強制退去させられるケースが多かったという。

 

こうした中で、小野田寛郎は例外的な人物である。小野田の着任時にはフィリピンの日本陸軍はすでに撤退寸前であり、米軍占領後のゲリラ戦を指揮するためにルバングに派遣されたのである。米軍の投降勧告を受け入れないのも無理はない。日本の反転攻勢を信じた小野田は住民の畑を焼き払ったり、地元警察と衝突するなどして日本軍に自分の存在を知らせようとしていた。よく言っても現地社会への無関心、悪く言えば敵対を貫いて生き延びた。

 

50年代に強制退去を受けて帰国した残留兵への社会的関心は低かったが、73年に横井庄一がグアムで、74年に小野田寛郎がフィリピンで「発見」されると、メディアは彼らを賞賛をもって迎える。50年代から70年代の間の経済的繁栄と戦争の記憶の風化は、横井や小野田に「忘れられた日本人」の像を重ねることを容易にした。彼らは「英雄」でもあり、お国の命令で戦わなければならなかった平凡な日本人という「犠牲者」でもあるという両義性をまとったのである。物質的な繁栄を謳歌する日本社会にとって、それは、受け入れやすい「物語」を提供することになった。

 

しかし、と本書は指摘する。

たしかにそのような見方は、日本人の自画像を問い直し、「敵」であった欧米人の他者像を見直し、あわよくば「和解」するという意味においてはある程度有効であったのかもしれ ない。しかし、本書で強調したように、アジアの人々にとっては、横井や小野田は、ジャングルに潜伏し続けたミステリアスで危険な存在でしかなかった。むしろアジアの人々との対話という視点で考えるならば、身近に接触のあった一〇〇人と、その背後にいた一万人規模の残留日本兵の存在こそ、戦後の日本人とアジアの人々の歴史認識の合わせ鏡とすべきである。彼らは、第二次世界大戦後、アメリカのヘゲモニーのもとでつくられた 「日本とアジ ア」という地域秩序のなかで生きてきた私たちに、「アジアのなかの日本」という世界観のなかで、個人として自律的に生きる可能性を提示してくれている。

 大部分の国民が戦争を体験的記憶としてすでに持っていない現在、2005年に起きかけたような第2の小野田氏騒動が本当に起きれば、おそらくはまた74年の「物語」が再生産されるだろう。だがそれで良いのか、という一石を本書は投じている。