トーキョーナガレモノ

日本映画の旧作の感想。でもそのうち余計なことを書き出すだろう。

注意)本・DVDなどへのリンクはAmazonのアフィリンクです。ご了承下さい。過去記事一覧はこちらです。

メカゴジラの逆襲

本多猪四郎は1993年に81歳で他界するが、監督作品としては「メカゴジラの逆襲」(1975年東宝)が最後となり、結果的にこの作品が本多の遺作となった。また東宝は、本作の興行的な失敗のため「ゴジラ」(1954年東宝)以来20年を経過しマンネリ化していた怪獣映画路線の打ち切りを決定する。(シリーズは1984年に新「ゴジラ」として再スタートする)

 

メカゴジラの逆襲」は、その二重の意味で最後のゴジラ映画だが、本作はフィナーレに相応しい輝きを持つ怪獣映画の隠れた名作になっている。

 


 

陽光を受けてキラキラと輝く海面から本作は始まる。タイトルバックで前作「ゴジラ対メカゴジラ」(福田純監督・1974年東宝)での、ロボット怪獣メカゴジラゴジラの激闘が振り返られる。

*

ゴジラに破壊されたメカゴジラの残骸を探索していた海底調査船が「恐竜だ!」という言葉をボイスレコーダーに残して沈没する。事件の調査に乗り出した国際警察の村越(内田勝正)と海洋開発研究所の研究員・一ノ瀬(佐々木勝彦)は恐竜の正体はチタノザウルスではないかと睨む。

チタノザウルスは15年前、生物学者・真船博士(平田昭彦)によってその存在が主張されたが、まさにそのことと、動物を意のままに操るコントロール装置の研究で狂気の学者として学会を追放されていた。

一ノ瀬は真鶴の真船邸を訪ねるが、娘の桂(藍とも子)に「父は死んだ」と追い返される。

 

桂にほのかな好意を抱いた一ノ瀬は、第二次海底調査に桂を誘うが、桂は「その船に乗ってはいけない」と警告する。桂の警告通り、調査船はチタノザウルスに襲われるが、チタノザウルスが音波に弱いことを発見して辛くも逃れる。

 

桂の父・真船博士は人知れず生きていて、地球侵略を狙うブラックホール第3惑星人に協力していた。生物コントロール装置の実験中に高電圧で感電死した桂をサイボーグ手術で蘇生したのがブラックホール第3惑星人だったのだ。真船は15年前に自分をキチガイだと追放した学会と家族を軽蔑と貧困に追いやった社会への復讐のため、ブラックホール第3惑星人はゴジラを倒し今度こそ地球侵略を成功するため、互いに協力する関係となっていた。

 

ブラックホール第3惑星人の首領ムガールは、海底から回収し修理中のメカゴジラを真船に見せる。真船は「完成するにはあと一つ足りない。人間の頭脳が・・・」と助言する。

 

一方、一ノ瀬は研究室に一冊だけ残っていた真船のノートから、真船の高い科学的知見に感銘を受けるようになる。

 

真船は独断でチタノザウルスを上陸させ、横須賀を破壊する。チタノザウルス対策に開発した超音波装置は、生物コントロール装置を埋め込まれた桂の手で破壊されてしまう。そのとき、チタノザウルスに呼び寄せられるようにゴジラが上陸しチタノザウルスを追い払う。桂は村越に追われ負傷するが、再びサイボーグ手術を受けると同時にメカゴジラの作動装置も埋め込まれる。「博士、あなたが言っていたじゃありませんか、メカゴジラに必要なのは生きた人間の脳だと・・・」

 

真船のノートを携えて再び真船邸を訪ねた一ノ瀬は、ブラックホール第3惑星人に囚われの身になる。後ろ手を縛られた一ノ瀬の前に現れたのはムガールと、死んだはずの真船博士と、二度のサイボーグ手術で人間らしさを失った桂だった。

 

チタノザウルスと完成したメカゴジラ二号機が同時に東京に上陸し破壊を始める。ほどなくゴジラも現れるが、メカゴジラの強力な火力の前に手も足も出ない。モニター越しにメカゴジラとチタノザウルスの蹂躙を目にした一ノ瀬は、桂にやめるよう説得するが、人の心を失った桂には通じない。

 

その頃村越はブラックホール第3惑星人の基地を突き止め、労務者として収容されていた地球人を解放して脱出する。基地は既に放棄された後だった。

 

一ノ瀬は縄を切った一ノ瀬はムガールに飛びかかる。そこに村越も駆けつけて銃撃戦になったとき、真船は村越をかばってムガールの銃弾を浴び絶命する。桂も腕に重傷を負う。その傷口からはメカがのぞいている。負傷のショックで人間の心を取り戻した桂は、メカゴジラを止めるために「私を殺して」と一ノ瀬に頼むが、一ノ瀬は「僕は君がサイボーグでも構わない、好きだ」と応じない。桂は手許にあったムガールのレーザー銃で自らを撃ち抜く。「桂さん!」桂は息絶える。

 

桂の死亡で作動装置が停止したメカゴジラは棒立ちになり、ゴジラにたたき壊される。一方、ヘリコプターから飛ばした超音波装置で混乱したチタノザウルスもゴジラの反撃で海に沈む。

*

桂の亡骸を抱えて海を望む一ノ瀬。冒頭と同じ波濤きらめく夕暮れの海の中へ、ゴジラは静かに還ってゆく。

 


 

本作は、それまでの子供向けゴジラ映画のフォーマットを外し、54年の第1作と同じく平田昭彦マッドサイエンティストを演じさせることで、科学の進歩が人類に危機をもたらすというテーマを問い直している側面がうかがえる。

 

第1作で大量破壊兵器オキシジェン・デストロイヤーを抱いてゴジラに特攻した芹沢博士は、自分の偶然の発見が人類を滅ぼしかねない力を持ったことに強い危機感を抱いていたが、本作の真船は研究の成果を認めなかった世間への強い怨みが研究を完成させる執念となってしまい、それを積極的に利用しようとさえ目論む。軽蔑と貧困の中で妻は死に、娘も事故で失いかけた真船には、宇宙人の手を借りてまで人間への怨みを果たそうとする。

 

ゴジラ退治のためオキシジェン・デストロイヤーを使うことと、その破壊力が軍事利用される懼れへの良心の葛藤は、芹沢自身が独りで抱え込んでいたものだった。芹沢が持っていたような、自己抑制のブレーキを社会的抹殺の形で奪われた真船の場合、暴走を最後に止めたのは、研究の完成のためサイボーグの体となったことと、一ノ瀬への人間としての愛情を振り切れない娘・桂の良心の葛藤だった。

 

本多猪四郎は80年代に行われたインタビューで「悪」についてこのように語っている。

結局、ぼくは本当の 「悪」というものを描けないんですよ。本当の悪というのは、ぼ くにはとても......。だから、殺人鬼みたいなかたちでも、ぼくの持っているものの中からすると、それぞれが 一所懸命生きながらぶつかっていくみたいなものでね。 そのへんが、 一時間半なり二時間なりという中にたたきこんで描くときに、あるいは 非常に甘っちょろけたかたちに映るかもしれないし......。ぼくの作品では、切羽詰まっ た状況でも、みんな人間としては、基本的には同じところにいて、 一所懸命良かれと思 ってやっていることがぶつかり合う、悪い結果になるというだけの描き方が多いんです よね。それがぼくの作品の特徴といえば特徴かもしれないし、甘さといえば甘さかもしれない。*1

このように本多は自分の甘さを認識しながらも、人間性への信頼をマッドサイエンティストにさえ描こうとした痕跡がこの2作のゴジラ作品にはうかがえる。

 

伊福部昭の「ゴジラのテーマ」のアレンジ曲も印象的な作品である。

  

*1:本多猪四郎「『ゴジラ』とわが映画人生」ワニブックス、2010年