トーキョーナガレモノ

日本映画の旧作の感想。でもそのうち余計なことを書き出すだろう。

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【書評】世直しとしての地震 — アウエハント『鯰絵』

1855(安政2)年旧暦10月2日夜10時頃、江戸を推定マグニチュード6.3の大地震が襲った。被災者の正確な統計はないものの、死者数千人、家屋倒壊1万数千軒、各地で火災が発生したと推定される。後代、安政地震と呼ばれる地震である。

 

地震から数日も経たないうちに、ナマズの怪物にユーモラスな詞書を添えた百種を超える安価な版画が江戸の絵店や辻で売られはじめ、庶民は競うようにこれを買い求めた。この版画を「鯰絵(なまずえ)」という。鯰絵に描かれたナマズは暴れていたり、神や人々に懲らしめられていたり、あるいは擬人化されて庶民の暮らしを模していたりと、モチーフはさまざまである。ほとんどの鯰絵は無署名で(無名の浮世絵師達の手によると考えられる)、戯文の作者も不明である。庶民は鯰絵を護符または娯楽として買い求めた後に捨てられ、現存しているものは多くない。

 

日本には柳田国男折口信夫以来の豊かな民俗文化研究の伝統があるが、不思議なことに鯰絵に着目した研究はほとんどなかった。オランダの文化人類学コルネリウス・アウエハントがライデン博物館と東京大学他が保存している資料をもとに、民俗学文化人類学の成果を援用しながら鯰絵の分析を行ったのが本書「鯰絵ーー民族的想像力の世界」である(原著は1964年刊行)。

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いまではナマズと地震に何の関係があるのかわからない人もいるので、念のため説明しておくと、近代科学が輸入される以前、日本では地の底に棲む大ナマズが暴れるために地震が起きると信じられていた。普段は常陸国(現在の茨城県)の地下にある大ナマズの頭を鹿島大明神が要石(かなめいし)で押さえて地震を防いでいるのだが、安政地震の起きた10月は、八百万の神々が出雲に集まって留守にする神無月(かんなづき)にあたり、鹿島明神の留守にナマズが暴れたと思われた。

 

このような考え方を迷信だと嗤うことはたやすい。だがその民俗信仰の底にどのような集団固有の心性が根付いているのかを分析することで、民族文化の特徴を明らかにしようとするのが文化人類学と呼ばれる学問の研究領域である。なお、地震と鯰を関係づける日本固有の民俗信仰がいつ頃生まれたのかは明らかになっていない。また鯰絵が爆発的に流行したのは安政地震の時だけであり、それより古い資料はないが、17世紀以降に滋賀県大津で作られ売られた旅行者の護符「大津絵」に鯰のモチーフがあるという。鯰絵流行という現象は、高度な貨幣経済と印刷技術が発達した江戸に展開した町人文化と、その庶民の心になお根付いていた民俗信仰の相乗効果により発生したものと考えられる。

 

文化人類学になじみの薄い読者には、訳者のひとり中沢新一が巻末に付記した解説「プレート上の神話的思考」をまず読んでみると役に立つだろう。やや詩的傾向があるものの、読みやすく、本書で展開される考察への良い手掛かりをあたえてくれる。

・・・鯰絵をとおして江戸の庶民たちが表現した土着的なリスク思考のなんと深く豊かであったことか。地震や火災で縁者を失ったものもあったろうし、焼け出されて着の身着のままの人びとも多かっただろう。そういう庶民が、ウィットに富むこれらの鯰絵を手にして、悲しみにうちひしがれながらも心には微笑をたたえているのである。鯰絵には自分たちを襲った災害の張本人である自然が、名指しで糾弾され批判されている。しかし、庶民はその張本人を恨むのでもなく敵意を持つのでもなく、災害をももたらす自然の本質を理解した上で、知性とユーモアをもって、乗り越えがたいほどの困難を乗り越えようとしているのだ。江戸の庶民には、人間が自然の一部分であることが、はっきりと自覚されていた。そこからぎすぎすしたところの少しもない、感傷性に溺れることもない、こうした知性豊かな表現が生まれたのである。

(中略)

 鯰絵にそなわったこのうるわしい特質は、人間と自然を対等にとらえ、一つの統一体をなすものとして考えようとする「対称性の思考」から生まれている。これに対して現代人に大きな影響をもっている科学的思考では、自然を人間から分離して、客観的な対象物としてとらえる「非対称性の思考」を発達させているので、地震のような自然の現象と人間的な世界の現象とを、別々に考える習慣がついてしまっている。そのために、自然に起こった出来事とそれがために人間に引き起こされた出来事を、一つの統一的な視点から思考するということができずに、自然のことは自然のこと、人間のことは人間の問題として、分離して処理される傾向が強い。

 

 ところが鯰絵では、現代人が分離してしまう人間の領域と自然の領域とを、統一的な視点から思考する試みがなされている。大地が大きく揺れて地震が起こった。地震は人びとの日常の暮らしを直撃しただけでなく、社会に大規模な資本の流動化を発生させ、ひいてはそれが封建体制の命脈をも縮めることになった。地震は自然と社会と経済と国家に、ひとしなみに大激震をもたらしたのだ。この出来事の総体を、鯰絵では「鯰の行為」という概念を仲立ちすることによって、一つの全体として思考しようとしている。

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ここで地震の起きた1855年という年に注目すると、その前年に、ペリー率いる黒船の二度にわたる砲艦外交が長年の鎖国を解いていたことに気づかされる。外国からの脅威に揺さぶられた幕藩体制が、鯰による本物の揺さぶりを招きよせたと考えることは江戸の人々にとって非論理的なことではない。

また地震の揺れと火災で富を蓄えた金持ちは家屋敷と財産を失い、復興特需で材木商と大工・左官らの職人は潤った。

一方で行き詰まった政治に打撃を与え、また一方で不当にストックされた富をフローに変えて庶民に再配分したこの大地震が、一種の世直しと見なされたことは、擬人化された鯰が切腹した腹から大判小判が溢れ出てきたり、エビス神が鯰をさばいて蒲焼きにし、人々が食している鯰絵のモチーフから読み取ることができる。

 

地下の大鯰は災害をもたらす破壊者であると同時に、社会の不正義をただす救済者という別の面をもつ。鯰が暴れることによって社会は疲弊した旧い秩序を捨て、新しい秩序を獲得して再び安定する。このような作用をもたらす社会的存在を文化人類学では「トリックスター」と呼ぶが、トリックスターの特徴は神聖と汚辱、高貴と卑賤、破壊と救済などの相反する属性を同時に備える両義性にある。

 

では鯰のトリックスター属性はどこからどのようにして生まれたのか。アウエハントはその起源を記紀神話と地方伝承ーー特に琉球ーーに求め、「鯰」「要石(または石、瓢箪)」「鹿島明神(またはエビス神)」の表象要素間の関係性を解きほぐしてゆく。

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1923年の関東大震災では、もはや鯰絵の流行現象は見られなかった。すでにこの時、地震鯰は迷信として打ち捨てられていたからである。阪神淡路、東北東日本の両大震災については言うまでもない。現代に生きる我々が地震の被害を乗り越える議論をするとき、俎上に上るのは防災上の建築工学的議論と復興予算に関する財政学的議論、それに被災者ケアへの臨床心理的議論などである。これらはリスクマネジメントという言葉が表現しているように、災害を人間の管理下に置いて、できるだけ日常の状態を維持する、あるいは取り戻そうとする発想だ(それはそれで必要不可欠なものではあるが)。つまりは地震鯰の頭を押さえる鹿島明神の役割を我々自身の手で行わなければならなくなったということでもある。

 

災害を自然と社会の一体化した現象として捉え乗り越えようとする鯰絵的知性は、もはや我々にはなく、一つ一つの課題に取り組んでいくほかに、前に進む道はないのである。

鯰絵――民俗的想像力の世界 (岩波文庫)

鯰絵――民俗的想像力の世界 (岩波文庫)