トーキョーナガレモノ

日本映画の旧作の感想。でもそのうち余計なことを書き出すだろう。

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(秘)極楽紅弁天

(秘)極楽紅(あか)弁天(曽根中生監督・1973年日活)は人別帳にも載らない「帳外長屋」に暮らす、江戸社会の最下層の人びとのパワフルでアナーキーな生き様を描いたロマンポルノ

長屋の同じ部屋に暮らす主人公・お紺(片桐夕子)は生娘、同居人は男好きのお品(芹明香)という凸凹コンビ。作品はお品が川に放尿するシーンから始まる(芹明香はたぶん日本のスクリーンで最も多くオシッコしている女優だ)。

 

帳外長屋の人びとはときたま裕福な商家に物乞いに押しかけ、糧食を稼いでその日暮らしを楽しんでいる。施しをケチる豪商・越後屋とケンカになり、地回りも加わっての大立ち回り。「うちらは江戸のヒッピーや!」とお品は豪語する。

 

そんなお紺たちの隣の部屋に暮らすのはなんと蘭方医の平賀源内(長弘)。ある日、源内は訪れてきた師匠と焼き芋を食いながらオランダ語の書物を読み合っている。「これはなんと訳せば良いのか・・・そうだ、自由だ!自由と訳そう!」その様子を覗いていたお紺とお品は「あれ、おいしそうな食べ物やな・・・ジユウっていうんやな」と妙に感心してしまう。

 

そんな中、お紺は偶然出会った旗本、新三郎(山本涼)と恋仲になる。だがあまりにも身分が違いすぎる二人。新三郎はお紺と暮らす道を選び、一度は侍の身分を捨てる決意をするが、源内に諫められる。

ーーお紺と一緒になりたければ、身分のない社会を作れ。

こうして新三郎はあらかじめ約束されていた出世の道を再び目指すが、その座を狙っていた友人、仙十郎(織田俊彦)に裏切られ殺されてしまう。

 

遺体のないまま新三の通夜をする長屋の仲間たち。お紺は源内に、理不尽な身分差別への復讐を打ち明けるが、「復讐すれば新三は還ってくるのか?」とたしなめられる。だがお紺にはこのまま黙っていることもできない。

ーー侍も乞食も違いはない、みんな同じ、生きてるんだって先生言ったじゃありませんか。

そこで源内は一計を案じる。

 

お品は出世した仙十郎を誘い出し、長屋連中の手でかごに放り込み城外に運び出す。通りのど真ん中でかごが開けられたとき、中から現れたのは、素っ裸に剥かれ、源内の秘薬で堅くさせられた仙十郎のアソコに跨がってよがっているお紺の姿だった。「見ろ!侍が乞食と交わってるぞ!」とはやし立て、やんやと踊り出す長屋連中。そして野次馬に加わる江戸の町民たち。その様子を、謀反のかどで奉行に捕らえられた源内が護送の駕籠の中から見守っていた。

 


 

こういう風に書くと、この作品は涙と笑いの人情ドラマのように響くかも知れないが、ここには虐げられたものの悲哀も身分社会の不条理も描き込まれていない。

 

帳外長屋の人びとは、社会秩序の外側でエロスの放埒を愉しみ、権力の頂点にお高くとまっている侍連中や、溜め込んだカネの上にあぐらをかいている商人連中に、小便を引っかけたり鼻くそをなすりつけたりして秩序を引っかき回すことを人生の楽しみにしているが、それは不条理な社会への抵抗ではないし、社会をひっくり返す力はもとよりない。「自由」という言葉さえ知らないのだから、権威を打倒する術など知りようはずもない。

 

秩序を徹底して笑い飛ばす、ただそれだけなのだ。だからこの作品は下品なディテールと奇妙な人物(なぜかいつも幽霊の格好で棺桶担いでいる男とか)だらけなのにも関わらず、青空の下のカラッとした陽気を感じさせる。

 

その生き方もまた、ある種のしたたかな処世術といっていいと思う。ニートブロガーphaさんに少し共通するものを感じる。

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