トーキョーナガレモノ

日本映画の旧作の感想。でもそのうち余計なことを書き出すだろう。

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美貌に罪あり

杉村春子山本富士子若尾文子野添ひとみ勝新太郎、川崎敬三、川口浩藤巻潤

「美貌に罪あり」(増村保造監督・1959年大映)は没落した地主農家から自立してゆく家族の様々な生き方をオールスターで描く作品。お盆休み向けの目玉作品なので、大事なのはスターの華やかさ。若尾文子に「そんな小綺麗ななりの農婦がいるか」とケンシロウ口調で突っ込むのはむしろ野暮というものである。

 

舞台は東京郊外の農村地帯(昭和30年代でも東京には農村があったのである)。かつての地主・吉野家の女主人ふさ(杉村春子)は、夫に先立たれてから2人の娘菊江(山本富士子)と敬子(若尾文子)を女手一つで育てながら、生花農園を切り盛りしていたが家は苦しかった。早くから都心に出ていた菊江は舞踊の道を目指し、周囲の反対を押し切って若手舞踊家・藤川(勝新太郎)と結婚する。

 

農作業の手伝いは敬子(若尾文子)とかつての小作農の息子忠夫(川口浩)がまかなっていて、羽田国際空港の生花売場に卸していたが、やはり外の世界に憧れる敬子はスチュワーデスの採用試験に合格し、家を出てしまう。忠夫の告白もソデにし、敬子は都心のモダンなアパートメントで素敵な殿方との出会いを夢見る。

 

また別の元小作の家の青年周作(川崎敬三)は吉野家で蘭の栽培を手伝っていた。忠夫の妹・かおる(野添ひとみ)は聾唖で、周作に秘かな憧れを抱いていた。

 

周作は菊江を愛していたのだが、芸道に生きる菊江から身を引き、見合いの相手・森下と結婚を決意する。周作の父・谷村は土地ブローカーで、吉野家の土地も含めた一体を宅地開発するべく、住宅公団の職員の娘・森下を周作にあてがおうとしていたのだ。

 

周作は吉野の家を出る自分の代わりにかおるに蘭作りを手ほどきするが、かおるは農薬の調合を間違え、大切な蘭をすべて枯らせてしまう。

 

これで吉野家の農家としての命運は絶たれてしまった。ふさは先祖代々の土地と家を手放す決意をする。かつての小作一同を集めたお盆の集まりで、ふさは地主として最後の挨拶をする。

 

みなさん、今日はお集まりいただきありがとうございました。
私は、夫に先立たれた後、150年続いたこの吉野の家を護ろうと必死でがんばってまいりました・・・でもこの土地と家を手放そうと決意して、今はさばさばした気持ちでおります・・・佐平さん、いままで安いお金で花を買い取ってくれてありがとう。谷村さん、高い利息でお金を貸してくれてありがとう。

 

農地改革で没落したとはいえ、地主の旧家の意地を、ふさは皮肉も交えながら堂々と示す。

 

その盆踊りの夜、菊江は仕事に恵まれずケンカの絶えなかった藤川とよりを戻し、敬子は忠夫こそが自分に相応しい相手だと気づき、周作はようやくかおるの想いを知る。

 

三者三様の恋が実を結び、翌日、ふさは八丈島の南洋植物農場で再出発するため、忠夫のトラックで屋敷をあとにする。敬子もやがて忠夫を追って八丈島に来るだろう。聾唖学校に復学したかおるも、森下との婚約を破棄した周作のもとにくるだろう・・・

 

増村保造若尾文子をヒロインに、強烈な自我と情念の世界を描く監督であったことはよく知られている。

しかしその一方で増村は「家族の結束」を丁寧に描く作品もいくつか残しており、本作はその一本と言えるだろう。ばらばらになりかけた家族を再びまとめるのはクライマックスのお盆の集会の場面、杉村春子の挨拶で見せた「意地」であり、それは「土地も家も失って、さばさばした」という一言に集約される。

 

因習への意固地な執着から解放され、再出発のゼロ地点に立つことは、人の生涯で一度あるかないかである。そういうとき、人は言葉の本来の意味で「さばさば」した心持ちになれるのではないか。そんなことを考える。

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