トーキョーナガレモノ

日本映画の旧作の感想。でもそのうち余計なことを書き出すだろう。

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妻は告白する

——以上で本件の審理を終わるが、最後に被告人は何か言うことがありますか。もし自由の身になったら、どうするかね。

——今度こそ、幸福な結婚をしたいと思います。殺人罪の被告として、こんな辱めに遭うのも、今までの結婚が不幸だったからです。

*

彩子(若尾文子)は不幸な女だった。

——被告人が滝川氏と結婚したのは。

——五年前、私が大学の薬学部に在学中の時です。

——結婚の動機は。

——滝川が突然申し込んだんです、研究室で。私は十一の時戦災で孤児になり、叔父に育てられました。叔父のうちも楽ではなかったので、一日でも早く薬剤師として独立しようと思ってました。奨学資金が少なかったので、助教授だった滝川の 研究の下調べや雑用をして手当をもらい、どうにか生活をしていました。でも過労と栄養失調で、毎日がとても暗く、自殺さえ考えていた時に・・・

深夜の研究室で滝川(小沢栄太郎)に犯された。

ーー私、結婚を承知しましたわ。一日でも早く苦しい生活から逃れたかったからです。

それでも彩子は滝川を愛そうと自分に言い聞かせた。学校も辞め、夫の趣味の登山にもつきあった。

それでも滝川は彩子を愛してはいなかった。 安月給のくせに生活より登山を優先し、子供に金がかかる、と妊娠した彩子を堕胎させた。安くて便利な家政婦、それが滝川の妻であることの意味だった。離婚の申し出にも、滝川は応じなかった。愛がない、というだけでは裁判所も離婚を認める可能性は薄かった。

*

「狂恋の夫殺し」。センセーショナルな事件に記者の殺到した東京地裁22号法廷で、葛西検事(高松英郎)は起訴状を読み上げた。

——被告人は某滝川亮吉の妻であるが、昭和36年7月15日、右滝川に幸田修を加えた3名で長野県北穂高岳滝谷の第一尾根岩壁登攀中、まず先頭の滝川が滑り落ち続いて同人とザイルに結ばれていた被告人も引きずられて転落した。
あやうく幸田に支えられ、被告人と滝川とは一本のザイルによって岸壁の上部に宙づりとなった。被告人はかねてより幸田に好意を寄せ秘かに情を通じていたため、夫滝川との夫婦仲はとかく円満を欠いていた。
そこで被告人は、咄嗟の間に夫を殺害して夫が被告人を受取人としている生命保険金(金額五百万円)と右幸田を得たいと考え、やにわに携帯していたナイフで自分の下方のザイルを切断し、滝川を約500メートル下のB沢渓流の谷に転落、死亡せしめたものである。
罪名、殺人。罰条、刑法第199条。

いっぽう被告側弁護士の杉山(根上淳)は、ザイル一本で宙吊りの人間二人を支えていたら、支えている幸田(川口浩)はいずれ失神して死ぬし、滝川夫妻も助からない、したがってこれは刑法37条の「緊急避難」にあたるやむを得ない措置であるとして無罪を主張した。

裁判は彩子の滝川への殺意の存在、つまり彩子と幸田が愛し合っているのかを巡る争いになった。

——証人は、幸田君と被告人滝川彩子の関係を知っていますか。

——はい。幸田はたびたび奥さんと会っていたようです。

——何の用で?

——存じません。

——幸田君は最近あなたに対してどんな風でした。

——申し分のない婚約者です。いつも食事や映画に連れて行ってくれました。

——幸田君が、滝川さんの奥さんに愛情を抱いていると思いますか。

——思いません。同情はしてるでしょう。

証言台に立った幸田の婚約者理恵(馬淵晴子)は、しかし、製薬会社の連絡係として滝沢宅に出入りしていた幸田が、彩子に同情以上の想いを寄せていたことを、幸田自身も気づかない彼の本心を見抜いていた。彩子が幸田を愛していることも。

*

最終弁論で彩子は「自由になったら幸福な結婚をしたい」と述べ 、裁判官の心象を悪くしてしまった。

——幸田さん、判決の日まであたしの側にいてくれる?あたしを愛してくれる?思いっきり。いっぱい。せめてその間だけ幸せになりたい。あとはどうなったっていいの。

——わかりました奥さん。会社から休暇を取ります。

彩子と幸田は二人きりで湘南海岸での数日を過ごした。

——今夜きりね。二人でいられるの。

——そんなことありませんよ。一生二人で暮らしましょう。奥さん、僕と結婚して下さい。

——だってあなたには理恵さんというちゃんとしたお嬢さんがいるわ。

——いいんですよ彼女は。僕がいなくても幸せになれる人だ。でも奥さんは違う。僕が必要なんだ。

——同情してるの、あたしに。

——いや、愛してます。

——あたしは夫殺しの恐ろしい女よ。

——それは検事の言っていることです。奥さんがそんなことをするわけがない。無実ですよ。

——世間が何というと思う? やっぱりそうだ、亭主を殺して一緒になった恥知らずの男と女だって。

——世間が何です。僕たちは信じ合ってる。平気ですよ、根も葉もない中傷は。

彩子に下された判決は「無罪」だった。

*

幸田が理恵との婚約解消を上司に打ち明けたその日、幸田は彩子の「新居」に招かれた。保険金で借りた洒落たマンションで二人の再出発をワインで乾杯しようという無邪気に喜ぶ彩子に、幸田は戸惑いを隠せなかった。保険金で滝川の墓を建てるべきだと思っていたし、マンションに住まなくても幸福になれると考えていた。

——でも、ねえ、乾杯しましょうよ、ね? 注いで下さる?

——なんのための乾杯ですか。保険金のためですか。

——酷いわ。どうしてそんなにあたしをいじめるの。

——奥さんがあんまり無神経だからですよ。

——あなたは臆病ね。世間が怖いんだわ。世間の人に悪く言われるのが恐ろしいのよ。

——そんなことありませんよ。

——じゃあ、あたしを愛してないんだわ。愛してないからあたしをいじめるのよ。愛してたら喜んでくれるはずよ。やっと二人きりの地点に立ったんですもの。いいわ、あたし一人で乾杯するから。

——奥さんはわからないんですか、僕の気持ちが。

——あなたもあたしの気持ちがわからないじゃないの!

彩子のグラスを取り上げようと揉み合ううちに、割れたグラスが幸田の右手を傷つける。介抱する彩子。

——まあひどい血。痛いでしょ。
あの時もこの手から血が・・・あなたの苦しみが、まるで自分の苦しみのようにわかったの。あなたが悲鳴を上げる度に、あたしも悲鳴を上げたわ。
なのに滝川ったら、ますます体を強く振って、とても憎らしかった。自分勝手で、人の苦しみなんかどうだっていい、憎らしかったわ。
このエゴイスト、夫なんか、死ねばいい・・・
あの時、本当にわかったわ。あたしが誰を愛しているか。あたしが愛しているのは、あなたよ。幸田さん、あなたなのよ。

——奥さん、あなたは滝川さんを殺したんですね。憎くて殺したんですね。やっぱり検事の言ったとおりだったんですね。
本当は有罪だったんですね。なぜ黙っていたんです!

——だってあなたがあたしを白い目で見ると思ったから、あたしを見捨てると思ったからよ!

——あなたは僕を騙した。僕だけじゃない、世間を騙し、裁判所も騙した。恐ろしい人だ。

——でもザイルを切らなかったらあなたが死んじゃう、あなただけは助けたかったのよ!

——助けてくれなければよかった。

——本当? 本当にそう思うの?

——奥さん、ここに居たくない。帰ります。

——帰らないで!ねえ、帰らないで!待って、待ってよ!あたしを独りにしないで!

*

幸田は上司に大阪への転勤を申し出た。明日は転勤というある雨の日、会社にいる幸田を彩子が訪れる。ずぶ濡れのままうつむいて立っている彩子の足元に雨だれがしたたり落ちている。だがそんなことも意に介さず、彩子は必死に幸田の心を引き止める。

——あなたが正しいことがわかったわ。保険金、ちゃんと全部残ってるわ。これからは、何もかもあなたのいう通りにするわ。
お願い、あたしを捨てないで。ねえ、こっち見て。
あたしって、そんな恐い女じゃないわ。弱い女よ。ただ、あなたを好きなだけ。あなたのために、なにもかも犠牲にしただけ。それだけよ。
結婚してくれなんて言わないわ。ただ、時々会って下さったら、半月に一度、ひと月に一度でいいの、二人きりで会って下さる?
イヤ? イヤなの? だったら一年に一度でいい、ねえお願い、二年に一度でも、三年に一度でも、お願い・・・

——奥さん、あなたは僕の命を救ってくれた。責める気は少しもない。だけどただ、たとえ僕のためでも、人を殺すなんて・・・人を殺す人間に人を愛することはできるんだろうか。やっぱり奥さんとはお別れした方がいい。

——待って!

 


 

人は誰でも、法廷のような規範の中で生きている。だが人が自らを規範に縛りつけていることを知るのは、規範の外に出たときだけである。増村保造は、情念が人を規範の外に押し出す力になると考えた。そしてその力は女性が持っていると考えた。男は、幸田がそうであるように、愛に溺れているときは「世間が何です」というが、ちょっとしたことでたやすく規範の中に回収されてしまう。

 

「妻は告白する」(増村保造監督・1961年大映)では、彩子を通じて世間からどう思われようとも愛を貫き通す意志、そのために何もかもを犠牲にし、規範の中にいる人からは恥知らずとも、犯罪者とも、気違いとも呼ばれうる人間像が描かれる。だが恥知らずであることが何だというのか。情念を解放することにこそ、規範の中にいるものが憧れてやまない「美」が現れるのではないのか。

 

増村保造若尾文子はそうした人間観を描いてきたが、その極致がこの作品といえよう。自分のようなものがいくら言葉を尽くそうが、若尾文子の激しい美しさを語り尽くすことはできまい。

 

だが情念を貫き通すことと、世俗的な幸福を追求することは時として二律背反であり、多くの場合悲劇を伴う。この記事では触れていない「妻は告白する」の結末もまた、その例に漏れない。

 

初めて出会ったとき、彩子は家の大工仕事をやってもらった礼に、幸田に一杯のウイスキーを差し出す。幸田は「奥さんもいかがですか」とグラスを差し出す。その一瞬ーー滝川から一度もされたことのないことをされて、ハッと驚く彩子の仕草に、彼女の結婚生活がいかに不幸なのかが全て表出されている。

 

そして無罪判決を勝ち取った彩子は、今度は瀟洒なマンションで幸田にワインを注ぐが、彩子の(世間的な尺度では)無神経さに苛立った幸田は拒否する。何かを飲むときに愛が始まり、飲むことを拒絶することで愛は終わる。そして愛を失った彩子の破滅もまた、かつて飲もうとして飲めなかったものを飲むことで訪れる。

 

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