トーキョーナガレモノ

日本映画の旧作の感想。でもそのうち余計なことを書き出すだろう。

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遊び

少女には名前がない。
少年には名前がない。

 

雑貨屋の店先の赤電話で電話帳をめくっていた少女(関根恵子)に、少年(大門正明)が背後から声をかける。

「誰にかけるんだい?俺が探してやるよ」

少女は貧しい女工からキャバレーのホステスに鞍替えして見違えるほど羽振りが良くなった、もと同僚の勤める店の名を告げる。

「ホステスならまだ出勤してないよ。夜になったら案内してやるから、それまで俺と付き合わないか。この銭、表が出たらその辺でお茶でも飲もうや。な、いいだろ?」

少年は十円玉をフリップする。こうして、「くちづけ」(1957)から14年を経て、恋の始まりは再び偶然の手に委ねられる。それが「遊び」(増村保造監督・1971年大映)の幕開けである。

 

*

 

「あんた、いくつ?」
「いくつに見える?」
「にじゅう・・・いち」
「バカ言え、そんな ジジイじゃねえよ」
「じゃあ、十八?」
「いい線いってるぜ」
「あたしより、二つ上ね」
「お前、パーツ工場に勤めてるんだろ。今日は早引けしたのか?」
「どうしてわかるの?みっともない恰好してるから?」
「勘だよ。この辺の女の子はみんな工場務めてるもんな」

少女の家庭は荒んでいた。モグリのトラック運転手だった父親(内田朝雄)が事故を起こして仕事を失い、酒浸りの父に代わって賠償金を母親(杉山とく子)の内職だけで工面していた。おまけに姉(小峯美栄子)はカリエスで寝たきり、その薬代もばかにならない。父はまもなくポックリ死んだ。少女は中学を出ると、住み込みのパーツ工場に働き口を求めた。やがて母は工場にまで金をせびりに来るようになった。お金がないというと、給料を前借りしろと、図々しいことまで言うようになった。

 

「あんた、学生さん?」
「兄貴の店を手伝ってるんだよ。くだらねえ仕事さ」

少年は下っ端のチンピラだった。「兄貴」=兄貴分のヤクザ(蟹江敬三)の下でスケコマシの手伝いをしていた。少年は見ていた。兄貴たちが連れ込み宿で女子大生を輪姦するのを。ゆすりの道具にするため裸の写真を撮るのを。女を売り飛ばす先を相談するのを。兄貴に「お前もやれ」と言われた。だが怯えて勃たなかった。「根性のねえ野郎だ」、兄貴にそう蔑まれた。

 

「キャバレーが開くまで時間がある。映画でも見に行かないか。俺やくざ映画が好きなんだ」

少年は少女を映画館に連れ出し、ポップコーンとコーラの瓶を差し出す。少年は少女の内股に手を伸ばすが、少女は目を閉じ、抵抗しようとしない。少女は思い返していた。工場の休みの日、寮の女工たちが着飾って遊びに行くのを。給料の大半を家族に仕送りしていた自分には羽根を伸ばすお金もなかったことを。少女は今こうして男の人と映画館に居ることが夢で、目を開けたら少年がいなくなってしまうのではないかと思っていた。少年は、自分を恥じて少女と映画館を後にする。

 

「兄弟、お兄さんだけ?」
「そうさ」
「お父さんは?」
「とっくに死んじまったよ」
「お母さんは元気?」
「ああ、元気すぎて困ってるんだ」

少年の母(根岸明美)はおでんの屋台を引いていたが、根っからの酒好きが災いしてロクな商売ができなかった。父親はとうに愛想を尽かして蒸発していた。やがて母親は、家に男を引っ張り込むようになった。入れ替わり立ち替わり違う男が入っている間、少年は部屋を追い出された。

 

キャバレー勤めなんかやめとけ、それより今日は一日遊ぼうと少年は少女を説き伏せ、バーへ、次にゴーゴークラブへと繰り出す。少女が席を外している間に兄貴と連絡をつけた少年は、少女をいつもの連れ込み宿に連れて行って待っていろと命じられ、小遣いを渡される。

 

「腹が減ったな。ここに入って何か食おうか」
「これ、旅館ね? こういうの、温泉マークとか、連れ込みって言うんでしょ」
「そうさ、でも食うだけだよ」
兄貴の命じるまま連れ込み宿に入り、出前のラーメンを待っている間に少年は思う。この少女にこれからどんなおぞましい運命が襲いかかるのかを。

「出よう!こんなところ、まるっきりイカサマだよ」

少女の手を取り、連れ込み宿の業つく婆を張り飛ばして、少年はタクシーに飛び乗る。行き先を尋ねる運転手に、海が見えるでかくてデラックスなホテルを、と答える。

「大丈夫?お金あるの?」
「心配するな。お前の方こそいいのか?パーツ工場の寮、門限あるんだろ?」
「工場なんか、どうでもいいわ。あんたに、ついていくわ」

 

生まれて初めて入る豪華ホテル。熱くて、透明な湯の風呂。豪勢な食事。

風呂上がりの浴衣姿で二人並び、鏡に向かい合う少女と少年。

「あたし、ずっと前から決まってたような気がするの」
「何が」
「二人がこうなることよ」
「バカ言え、今日会ったばかりじゃねえか」
「でもそうなの、あんたに会うために、今日まで生きてきたんだわ」

少年ははじめて打ち明ける。自分がチンピラであること、兄貴を裏切って逃げ出して、明日からどうなるかも判らないこと。少女は、そんなことは初めからわかっていたと答える。

「構わないわ。あたしだって、ヤケになって逃げ出してきたんだもん。お母ちゃんと、カリエスのお姉ちゃんから。みんな忘れたいの」
「ヤケで俺についてきたのかよ」
「はじめはね。でも今は好き。あたし、独りぼっちだったの。自分の好きな人を見つけたかったの」
「俺だって独りぼっちだ!女なんて嫌いだけど、お前は別だ。兄貴なんかに渡せるか!」

ともに独りぼっちの少女と少年はその夜、互いに初めて男と女になった。

 

翌朝、抜けるような青空の葦の原。二人には何もない。金も使い果たしてしまった。工場も、兄貴も、母親も、病気の姉もみな捨ててここに来た。これから行くあてもない。

少女と少年は、川に浮かぶ小さな舟を見つけた。だが舟は底に穴があいているらしく、半分ほど水に浸かっている。少女は舟に乗ろうとして転んでしまい、服を濡らしてしまう。

いっそのこと、脱いでしまおう。少女と少年は服を舟に放り投げ、裸で鞆につかまって向こう岸へと泳ぎだす。木でできた舟が沈むことはないだろうが、実は二人ともかなづちである。向こう岸に泳ぎ着けるかどうか判らない。流れが急になれば、二人とも海に流されてしまうだろう。だが構わない。「一人きり」から「二人きり」になった少女と少年に怖れるものはない。二人は前へと泳ぎだす。

 

*

 

「遊び」は、主人公の少女と少年に名前がない点も含めて、野坂昭如の短編「心中弁天島」を映像化した作品である*1。少女と少年の過去と現在を交互に描写してゆく構成も原作を踏襲している。

 

「心中弁天島」という題名からこの作品は心中譚であることはわかるが、そこに至る心理的過程は原作には必ずしも丁寧に描かれていない。ただ絶望的な境遇の少女と少年が出会い、恋に落ち、そしておそらく死出の旅であろう湖水への泳ぎの状況的過程を美文で簡潔に語るのみである。

 

増村保造の映画が大きく改変しているのはこの点で、「あんた」「お前」と呼びかけ合いながら、少女も少年も境遇や心裡を過剰なほど吐露し、愛情を確かめ合い、「独りぼっち」から「二人ぼっち」になった二人は大きな希望のもとに旅だってゆく。原作では雨の夜中に舟を出すのだが、映画では少女と少年は晴れ渡る青空の下を泳いでゆく。このラストシーンが絶賛に値する美しさであることは言うまでもない。

 

そしてそのラストシーンへと焦点を合わせたがために、通常の映画ならば物語を構成する上で重要と思われる部分までが捨てられ、観客にやや居心地の悪い感覚を与えるのもまた事実だと思う。タイトルから「心中」の二文字が消えたため、結局二人は死ぬのか、生きるのかは曖昧になる。少年はやくざの追手から逃げ切れるのか。少女の母と病気の姉はどうなるのか。二人に幸福は訪れるのか。それらはすべて観客の想像に任せられる。そしてまた、それで良いのかも知れないと思う。

 

1971年に大映は倒産し、専属契約していた増村保造大映での最後の作品は、デビュー作と同じ少女と少年の初々しい恋物語となった。既にテレビに押されて映画界全体が斜陽であったが、大映はその中でも負け組であった。観客の多くは、「遊び」の少年が熱狂していた任侠映画の東映に流れた*2。少年に「あ、出てきた、あの男カッコいいだろ」と言わしめているのは大映の役者ではなく東映高倉健鶴田浩二、あるいは若山富三郎であろう。

任侠映画だけが大映を潰したわけではない。だが大映(日活もだが)に引導を渡す役目を負ったのは高倉健であった。

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*1:ただし原作での会話は関西弁で書かれており、いっぽう題名の地名「弁天島」と最後に二人が流されて行く先は遠州灘であることから舞台は浜松とも思われ、結局どことも知れない地方都市の話とも読めるのに対し、映画では標準語で展開し、舞台は東京の下町であろうと推測される点で両者の印象は大きく異なる。映画のラストシーンは霞ヶ浦で撮影された。

*2:原作では「映画て何見るのん」「東映や、ええやろ」という会話が交わされる。東映イコール任侠映画なのである。