トーキョーナガレモノ

日本映画の旧作の感想。でもそのうち余計なことを書き出すだろう。

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若さま侍捕物帳 黒い椿

娯楽映画にはある種のルールがあり、そのルールは観客から作品への「期待」と、作品から観客への「サービス」(それがたとえ社会規範や倫理に反するものであっても)からなる。作品が観客との間に交わしたこの約束を忠実に履行することが、先品の成功を左右する基礎になる。

 

伊豆大島の活火山・三原山に立つ者は、火口に落ちなければならない」。これはそのルールの一つであると言える。現実には何人も三原山火口に落ちるなどということはあってはならない。だが映画のなかの三原山の火口に立つ者を捉えたシーンでは、観客はその者に落ちてくれと期待せずにはおれない。作品はたっぷりの演出を込めて期待に応える。

 

例としてリメイク版の「ゴジラ」(橋本幸治監督・1984年東宝)のクライマックスを挙げよう。動物学者の発明した音波誘導装置で三原山の火口まで誘き出された無敵の怪獣。火口には防衛隊が爆弾を仕掛けている。一瞬、ゴジラは火口の寸前で立ち止まる。カメラは怪獣を正面からの短いバストショットで捕らえる。観客はその瞬間、知能としては下等動物にーーより正確にいえば人間らしい表情の作りようがないラテックスの着ぐるみにーーすぎないそのモノに、ある種の「思惟」を読み取る。怪獣が、そこに致命的な罠が仕掛けてあることに気づいているのではないかと錯覚する。あるはずもない怪獣の≪心≫を、観客自身が作品に刻印する。

だが観客が怪獣の思惟を内面に言語化する前に、せっかちな防衛隊は爆弾を破裂させ、足下を崩されたゴジラは奈落へと落ちてゆく。映画は待ってくれないのだ。

この印象的なシークエンスを効果的に成り立たせているのは「三原山の火口に立つ者は、そこに落ちてくれなければ映画にならない」という観客の期待である。作品がそれに如何に応えるか、として腐心するために日本で異常発達した特撮の技法は必要ない。サスペンスの技法が必要なのだ。

 

 *

 

「若さま侍捕物帳 黒い椿」(沢島忠監督・1961年東映)はさらに「三原山の火口ルール」に忠実な作品である。

 

氏名不詳の主人公・通称「若さま」(大川橋蔵)は江戸の喧噪を離れ大島に保養に来る。冒頭、三原山を散策していた若さまは花を手に火口に佇む不思議な少女・お君(丘さとみ)と出会う。お君は大島のどこにでもいる可憐なアンコ(伊豆大島の未婚女性)にしか見えないが、実はお君の母はかつて江戸から来た侍と恋に落ち、父なし子のお君を産んでからは世間の風当たりに耐えきれず幼いお君を残して三原山の火口に身を投げたのであった。

 

若さまが出会ったその時、お君は母の墓でもある火口に花を供えに来ていたのであり、お君は漁師の祖父のもとで椿油の収穫で身を立てながらも、世間の冷たい視線に絶えず晒され続けて生きてきたのだった。お君は生まれながらに三原山の火口の呪いを背負ってきたのである。

 

「若さま侍捕物帳」は時代劇とはいえチャンバラ主体ではなく探偵もののシリーズらしい(見たのがこの一作なので他作品のことについては言えない)。探偵ものというのは主人公が訪れた瞬間から事件が動き出す。「黒い椿」では強欲な漁師網元・甚兵衛(阿部九洲男)の殺人事件を巡って無実の罪を着せられたお君の祖父・作造(水野浩)と彼を匿うお君、真犯人を捜す若さまの推理劇が平行して展開する。若さまの宿の女主人お園(青山京子)、番頭金助(田中春男)、金助を追って大島に密航してきた謎の修験者(河野秋武)、甚兵衛に椿油工場を取り上げられた油屋与吉(坂東吉弥)、油取引だけが目的ではない江戸の油仲買人新三(山形勲)、乞食婆のお熊(金剛麗子)といった容疑者が蠢き、あるものは殺される。

 

探偵ものなので真犯人を明かすことはここではできないが、クライマックスはやはり三原山の火口に設定される。

村人達の山狩りで三原山に追い詰められたお君と作造は、そこで待ち構えていた「真犯人」に、すべての証人に消えて貰うため火口に飛び降りるよう脅迫される。いわばお君は自らの呪いの成就を強いられるのだ。

 

そこに都合良く現れる若さま。事件の真相はすべて判明したと真犯人を追い詰める。探偵との知恵比べに破れ観念した真犯人は、己の不運を笑い飛ばしながら、足を滑らせて火口へと落ちてゆき、 一切の叙情的無駄を排除した作品はここで唐突に終幕となる。

 

三原山の火口ルール」は、そのルールを自らの出生の呪いとして引き受けた、哀れなお君よりも、真の悪人である真犯人を相応しい身代わりとして飲み込むことで観客に最高級の満足を与える。母が江戸の侍と恋に落ちたがゆえに不幸を背負ったお君は、別の江戸の侍・若さまの力によって呪いを解かれ、アンコとしての平穏な将来が暗示される。これが娯楽の正統でなくてなんであろうか。

 

*

 

まだ少女の域を出ないお君は、自力で火口落ちの呪いを断ち切ることはできず、若さまの力を得ることによって初めて解放された。だが自らの意志で呪いを絶つこともできる。それには自らが他者をーー意図的であれ偶然であれーー落としてしまうというタブー破りが必要だ。誰かを落とすことによって呪いを解くこと。「めまい」(アルフレッド・ヒッチコック監督・1958年アメリカ)におけるジェームズ・スチュワート以上に、その意志の強さを見たものはない。教会のらせん階段と同じくスパイラルに上昇してゆく観客の期待に応え、高所恐怖症の中年探偵は呪いの権化であるキム・ノヴァクを伴って駆けあがってゆく。天辺にたどり着いたその先には・・・

 

「若さま侍捕物帳 黒い椿」にはヒッチコックのサスペンスの強靱さはない。だがそれでも、「めまい」の翻案なのである。

 

(「若さま侍捕物帳 黒い椿」はソフト化されていません)

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