ある東大生の遺書
彼の名前を仮にN君としておこう。
1977年1月17日午後11時頃、東京大学本郷キャンパスの三四郎池の藤棚で、法学部4年生のN君は首をつった。N君のジャンパーにはレポート用紙3枚に長文の遺書が書かれており、それには次のようなことが書いてあった。
一見すると難解なようだが、N君の数式は高校で習うレベルの積分式で、つまるところ"この先自然死するまで生きてても生きる意味は今より悪くなるだけだ(0>Vt0>Vd0)"ということが言いたいだけである。司法試験に落ちたことが契機になったようだ。
このニュースに接した映画評論家・岩崎昶は死の前年に上梓した自伝「映画が若かったときー明治・大正・昭和三代の記憶」で、N君の死に接してある種の感慨を覚えている。岩崎自身が東大OBなのもあるが、それ以前にN君の死は岩崎に、彼の母校・旧制第一高等学校(通称一高、東大教養学部の前身)の先輩であった藤村操の死を思わせたからだった。
悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小軀を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲学竟に何らのオーソリチーを値するものぞ、万有の真相は唯一言にして悉す、曰く「不可解」、我この恨を懐て煩悶終に死を決す。既に厳頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし、初めて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを
1903年5月22日、藤村操は日光華厳の滝の傍らの大樹にこの「厳頭之感」を書き付け、身を投げた。岩崎が生まれたのはその翌年のことであったが、藤村の衝撃は岩崎が一高に進学してもなお昨日のことのように語り継がれていたという。
明治という時代は、青年が初めて個我というものに向き合うことを余儀なくされた時代でもあった。軍隊や鉄道や工場は国家がもたらしてくれた。だが真理や生の意味は自分でつかみ取らなければならなかった。煩悶する時間だけは手に余るほど持っていた日本の青年にとって個人を基底とする西洋哲学は、知的スノビスムの段階を超えて突き詰めていけば行くほど、自分を追い込むものであったのであろう。藤村操は「不可解」という結論を出さざるを得なかった。70年を超えるその命脈を、岩崎昶はN君に見た。
しかし、である。年間三万人が自ら命を絶つと言われる今の時代、その理由の大半は「健康(おそらくメンタルも含まれるのであろう)」と「経済」である。それにいじめを原因とした子供の痛ましい死を併せ考えると、哲学的自殺はそれこそが「不可解」と言わざるを得ないのだ。
N君の自殺に感慨を覚えた岩崎昶は、関東大震災と東京大空襲で二度焼け野原になった東京を生き延び、ファシズムの嵐の中で弾圧を受けてなお生き抜いた人である。