トーキョーナガレモノ

日本映画の旧作の感想。でもそのうち余計なことを書き出すだろう。

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フーテンの寅さんは反社会的勢力か

みずほ銀行の暴力団関係者への融資問題の第三者委員会報告書を、企業コンプライアンスの第一人者である郷原信郎弁護士は「銀行側の言い分を当たり障りなくなぞり、一方で、表面的な批判をしたに過ぎなかった」と厳しく批判している。

 

みずほ問題の本質は、銀行・金融庁の「環境変化への不適応」 | 郷原信郎が斬る

 

問題の第三者委員会報告書そのものは要約版を読んだだけなので、コメントする立場にない。また、郷原弁護士については「「法令遵守」が日本を滅ぼす 」以来何冊かの著書を拝読させていただいているが、氏の批判はおそらく的を得たものだろうと思う。

このエントリには次のような記述がある。

かつての日本社会における反社会的勢力への対応は、「不当要求の拒絶」。それが、2007年頃から、「一切の関係遮断」の方向に大きく転換していった。企業が暴力団等からの不当な要求に屈し、企業の利益を損なうことを防止することが主目的であったのが、数年前から、反社会的勢力を社会から排除するためのシステムを企業が担うことが強く求められるようになっているのだ。

この箇所以外にも「反社会的勢力との一切の関係遮断」という表現がエントリに頻出する。 この反社勢力と一切の関係を遮断する社会システムの構築が企業にも求められているとのことである。別にみずほ銀行に同情はしないが、かなり厳しい要請だと思う。

 

ここでふと、問題の原点にある「反社会的勢力」とはそもそも何だろうということに思い当たった。Googleを手がかりにいくつかの関連サイトを見て回ったが、法的には明確な定義はないようだ。そこで平文で考えていくと、この言葉が対象とするものには、まず暴力団とそのフロント企業が思い当たる。総会屋は暴力団とは区別されるが、反社勢力には含めるべきだろう。それ以外にも威嚇的手段を使う個人や団体もカバーできるようにしたほうがいい。そこで暴力団「等」の反社会的勢力、という言い方が多用されるようになる。「等」は広い範囲の対象を網に掛けられる便利な言葉だ。

 

そこまで考えたところで、日本映画をテーマにしているこのブログの関心は、フーテンの寅さんことテキ屋の車寅次郎は、このような文脈では「等」に含まれるのか——つまり「反社会的勢力」に該当するかという疑問に移る。テキ屋といえば、たとえば深作欣二監督「仁義なき戦い 広島死斗篇」に登場する大友連合会というテキ屋衆の取りまとめ組織が思い浮かぶ。会長・大友は伝統を重んじる昔気質のヤクザで、賭場を仕切ってきた経緯から競輪場の利権を独占する村岡組との対立を避けようとするあまり、血の気の多い戦後派の二代目を破門までしてしまう。ここには、ヤクザにはテキ屋系と博徒系とがあり、両者は共存共栄を理想としていたことが示唆されている。現代から見ればどちらも「暴力団等の反社会的勢力」の網にかかることは言を俟たないだろう。

 

男はつらいよ」にも、寅次郎が柴又のテキ屋衆に仁義を切るシーンがある。ごく短いが、このシーンがないと寅次郎のキャラクター設定にリアリティが欠けてしまう。では寅次郎は、テキ屋系ヤクザ、いまでいうところの反社勢力の「関係者」ということなのだろうか?  直感的には、そんなはずはないように思える。だがその感覚には、NHKのBSでも放送している国民的なシリーズの、お調子者でお人好しの主人公というバイアスが既にかかっていることは意識しなければならない。

 

もう一つのシーンを考えてみる。妹・さくらが勤める都心の大手電機メーカーに、寅次郎がふらりと会いに来る。スーツ姿だらけのオフィスで気後れもせず「ここのトイレは洋式かい?」と受付嬢をからかう場面は滑稽だが、ここでこの場面を2013年に置き換え、あなたが大企業の受付に座っていたらどう対応するかをちょっと想像してみたい。いきなりアポもなしに、雪駄履きのどうみても堅気でない風貌の男が現れて「この会社にキーパンチャーの車さくらっての居るだろ? ちっと呼んできてくんねえかな? 俺かい? 俺ぁ実の兄貴の寅次郎よ」とでも言われたとき、どう対応するのが正解か。この男の言うことを信用すべきか。

 

寅次郎はどうみても堅気の商売人ではないが、恫喝したり脅迫したりといった意図を持っていない。何かの組織にも属していない。その点において経済活動の脅威にはならない。黒か白かでは判定できない、見た目でグレーが精一杯の所にいる。が、一見しただけでは相手の意図まではわからない。したがってグレーの相手は、「黒か白かわからないから取りあえず黒」と機械的に判断するのが世間的なコンプライアンス感覚ではないだろうか。つまりはお引き取り願うという方向に傾く。推定無罪の原則(クロと立証できるまではシロと見なす)ならぬ推定有罪の心証が合理的な選択に見える。

 

そして反社会的勢力との一切の関係遮断という社会的要請は、このような行動をより強力に正当化するドライブをかける。寅次郎には受難の時代というべきだが、それを間違っているとは言わない。彼はあくまでも映画の中にしか存在しないのだから。