トーキョーナガレモノ

日本映画の旧作の感想。でもそのうち余計なことを書き出すだろう。

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最前線物語

気狂いピエロ」(Pierrot le Fou, ジャン=リュック・ゴダール監督・1965年フランス)を見たという人も今ではもう少ないだろうと思うので、この作品に本人役で出演したサミュエル・フラーの有名な言葉を引用しておくのは無駄ではないだろう。

映画は戦場のようなものだ…愛、憎しみ、暴力、死。一言で言えばエモーションだ。*1 

ゴダールの支持表明によって、サミュエル・フラーは映画スノッブの間でイコンと化してしまった感があった。手許にある何冊かの映画本のPDF(自炊してテキスト埋め込んだ)、「サミュエル・フラー」と検索すると出てくる膨大な結果には辟易させられるほどだ。蓮實重彦江戸木純藤原帰一までがサミュエル・フラーを賞賛する。だがフラーほど名前だけ知られ、その作品に直に触れる機会がお寒い状況だった監督もそう居ないのではないかと思う。

 

かく言う自分もフラーの作品と言えば「鬼軍曹ザック」(The Steel Helmet, 1951)、「最前線物語」(The Big Red One, 1980)、「ストリート・オブ・ノー・リターン」(Street of No Return, 1989)くらいしか見られていない。それも20年ほど前のことだ。

 

国立東京近代美術館フィルムセンターで開催中のぴあフィルムフェスティバル(PFF)が今回、若い映画作家に作品を見て欲しい特集上映としてサミュエル・フラーを選んだのは賢明なことだと思う。もうそろそろスノビスムは終わりにして、あらためてサミュエル・フラーを見てみようではないか。そういうメッセージが込められている気がした(あくまで気がしただけだが)。聞けばフラーの特集上映は1990年以来だから実に25年ぶりだ。

 

PFFサミュエル・フラー特集上映第1弾「最前線物語」は、合衆国陸軍歩兵として第二次世界大戦北アフリカ〜欧州戦線を転戦したフラーの実体験に基づく物語だという。原題The Big Red Oneはヘルメットにつけられた陸軍第一歩兵師団の赤いマークのことだが、19世紀アメリカの作家スティーブン・クレインの戦争小説「勇者の赤いバッジ」(The Red Badge of Courage)を思わせずにはいられない。上映前の短いトークショーで話されていたことだが、この作品のオリジナルは6時間にも及び、それをフラー自身が編集して4時間半にまで縮めたが、製作元のワーナー・ブラザーズはフラーを閉め出して1時間56分にまで短くしたとのことだ。フラーの不満は想像に難くない。だがそのおかげで、この作品に商業的成功をもたらしたことも認めなければならないだろう。(下記のAmazonのリンクはフラー没後の2004年にリコンストラクション・エディションとして発売されたもので、追加シーンを含めて2時間43分になっている)

 

この作品は、戦争が終わる場面から始まる。1918年、独仏戦線。<戦争は終わった>と近づいてくるドイツ兵を、"軍曹"(リー・マーヴィン)は敵の計略と誤解して刺殺してしまう。だが塹壕に帰ると、彼は第一次世界大戦は本当に8時間前に終わっていたことを知らされる。

殺してはならない者を殺してしまった悔恨を抱えたまま、1942年、新兵たちを連れて"軍曹"は第二次大戦の最前線に立つ。アルジェリアロンメルの戦車隊に追われ、生き残ったのは二等兵グリフ(マーク・ハミル)らわずか4名。"軍曹"の第18小隊は地中海を渡ってシチリアに上陸、そして英国からノルマンディー上陸作戦に参加、ドイツ軍との一進一退を続けながらチェコスロバキアへと向かう。

そして1945年5月。<戦争は終わった>と近づいてくるドイツ兵に"軍曹"はナイフを突き立てる。だが再び、終戦が事実だと知った"軍曹"は踵を返し、今まで虫けらのように殺してきた無名のドイツ兵を、「お前だけはなんとしても助ける」と救助する。

 

この間、さまざまなエピソードが綴られる。"軍曹"がかつて過ちを犯した北フランスの荒野。巨大な十字架が20年前と同じ様ににそびえ立つその場所で、死んだふりをして待ち伏せるドイツ兵たちを蹴散らした小隊の前に、一台のサイドカーが飛び込んでくる。サイドカーには陣痛に苦しむ妊婦。運転手の夫は死んだ。小隊は止むに止まれず敵の放棄した戦車の中でお産を手伝う。ゴム手袋の代わりにコンドームを指につけ、今し方まで敵兵をなぶり殺しにしていた戦車の中で新しい命を見届ける。

 

シチリアでは、丘の上の小屋に隠れた戦車を背後から攻撃する。戦車の周りはシチリアの農婦たちがドイツ兵の監視の下、農作業のふりをさせられている。小隊が戦車を制圧すると、農婦たちは鍬や鋤で監視兵を切り刻む。

 

ベルギーでは内通者の手引きで、ドイツ軍に占拠された修道院を襲撃する。精神病者を保護するその修道院では、狂人たちと軍人たちが向かい合って食事を共にしている。そこで狂女のふりをした内通者(この役を演じるステファーヌ・オードランという女優はクロード・シャブロルの夫人だそうだ)が踊りながら次々とドイツ兵の喉を掻き切ってゆく。

 

チェコスロバキア、ファルケナウ。何の場所なのか知らないままドイツ軍の施設を襲撃した"軍曹"の小隊は、そこで一列に並んだ焼却炉を発見する。グリフがその一つを開ける。グリフは焼却炉の中に、人間の白骨死体が折り重なっているのを発見する。ここは強制収容所だったのだ。グリフは隣の焼却炉を開ける。拳銃を手にしたナチスの男が隠れている。グリフは無表情に突撃銃の引き金を引く。バン、バン、バン…と十数発の銃声が収容所に響き渡る。

いっぽう、"軍曹"は生き残った一人の幼い少年を発見する。ユダヤ人か、ポーランド人か。衰弱しきった少年に言葉は通じない。ミルクを飲ませ、パンを食べさせて少し元気が出た少年を、"軍曹"は肩車に乗せて散歩する。無邪気に"軍曹"の肩にのる少年。だが間もなく、少年はガクンと頭を下げる。命が尽きた少年を乗せたまま、軍曹は30分構内を歩き回った…とグリフのナレーションが語る。

 

敵に対して無感覚に引き金を引ける生命観の摩耗と、敵でないものに対する溢れるヒューマニズムが一人の人間の中に混在する。その矛盾を引き受けなければ前線では生き残れない、とこの作品は言っているように思える。

 

アルジェリアでの最初の戦闘におそれをなしたグリフは、自分にはmurderはできないと呟く。"軍曹"はmurderではない、killだと言う。若いグリフにmurderのkillの区別はつかない。だがためらいは恐れを生み、恐れを抱けば戦場では生き残れない。グリフはD-デイのオマハビーチで身をもってそれを知ることになる。前からはトーチカの銃弾の雨、後ろからは前進せよという"軍曹"の威嚇の一発。「最前線物語」のマーク・ハミルにフォースの導きなどない。目の前の過酷な現実があるだけだ。グリフは歯を食いしばって進むことを選ぶ。

 

映画に始まりと終わりがあるように、戦争にも始まりと終わりがある。終わったその瞬間から、敵は敵でなくなり、殺すべき命は救うべき命になり、killはmurderになる。"軍曹"は先の大戦でそのことを知っていた。だが終わりがいつ訪れるのかは、前線の兵士にとっては神の振る舞いのように不可知だ。世界が一変する終戦の時まで、そしてその時に生き延びていられるまで、兵士は葛藤を抱えてkillを続けなければならない。

 

「映画は戦場のようなものだ」というフラーの言葉は、いままで数ある比喩の一つだと思っていたが、「最前線物語」をあらためて見直してみて、これはもっと重い意味を持っているのだろうと、と今は考えている。

youtu.be

PFFで上映の前説の度に宣伝されているので、ここでひとつ触れておこう。2002年に発刊されたサミュエル・フラーの自伝の邦訳が今年の12月に発売されるそうだ。出版社に購入予約すると割引価格(6000円→4500円)になるとのことなので、興味あるかたはどうぞ。

www.boid-s.com

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