トーキョーナガレモノ

日本映画の旧作の感想。でもそのうち余計なことを書き出すだろう。

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土下座に名場面はない

土下座みたいなものが流行するのか。流行があるなら廃れもあるはず。早々に廃れていただきたい。2013年10月26日ヨミウリオンラインの記事。

 

土下座、危ないブーム…映画や漫画シーン度々 - ライブドアニュース

 

自分は記憶力が悪い、と前置きしつつ言うと、覚えている限りの日本映画で土下座が名場面になったことはない。

 

正しい土下座は膝をつき、手をつき、頭を下げて、視線を逸らすこと。そして視線を逸らされた者同士の関係にそれ以上の発展はない。土下座が完成したとき、外形上、下に引用する森達也が言う「屈服」の関係が固定化する。そこには、屈辱を受け入れるから(これ以上何かあっても)これで終わりにしてくれ、という面従腹背の意図が見え隠れする。土下座にこのような関係の強制的硬直化のことを「みそぎ」という人もいる。神事の前に体を清めることを意味するに過ぎなかったこの言葉が世俗的な意味で頻繁に使われるようになったのは、スキャンダルにまみれた自民党が選挙で議席を失うことと世間への贖罪を同一視するようになってからだ。

 

話を土下座に戻すと、ポイントは視線を逸らすことだ。もし土下座姿勢のままキッと相手を見つめていたら、「なんだその目は!」と却って逆上されるだろう。現実では非常にまずい状況だが、しかし映画もドラマもむしろそこからが面白い、そこからが本番だ。パッと思い出した作品で、いい例えでないのは承知しているが、たとえば増村保造監督「妻は告白する」の、山岳事故に見せかけた夫殺しの嫌疑をかけられ、決定的な証拠なしという状況で懸命に無実を訴える若尾文子を裁判長席の位置(?)から捉えたシーンのあの若尾の目。そういう目がない映画はつまらない。

 

土下座して、視線を逸らして苦境をうやむやにやり過ごすような映画は歓迎されない。それどころか、自分がスクリーンで観たいのは必死に何かを訴える人間、その必死な目だ。

 

ところでNHKの「クローズアップ現代」も2013年10月8日に土下座をテーマにしていたが、森達也のコメントが興味深かった。考えがまとまらないので自分用にメモだけしておく。キーワードは「集団化」。土下座を巡る文脈からこの言葉が出てくるのは独特の切り口だ。

森さん:まず、謝罪じゃないですよね。
少なくとも、もしかしたら、中には謝っても謝りきれないという方もいるかもしれないけど、基本的には、ほとんどの人が土下座をしながらも、本気で謝罪はしてないでしょうし、また僕らも、それをなんとなく感じてるからこそ、見てて、あまりいい感じがしない。
つまり屈服ですよね、謝罪ではなくて。
全面的な屈服、降伏、そういったものを強要する。

 

(中略)

 

ことばにしちゃうと、僕は集団化だと思います。
つまり盛んに今、右傾化、保守化ということばを口にする人多いけど、僕はそうじゃないと思うんです。
疑似右傾化、疑似保守化、実質は集団化、不安と恐怖が強くなったからこそ、みんなでまとまりたい、1つになりたい、そういった過程の中で、異物を探したい、異端を探したい、それをみんなで排斥したい、そういった気持ちがとても強くなってきてる。
それが今ね、こうした現象になって表れてるんじゃないかなという気がします。
(例えば、何の集団から、ちょっとはみ出たような人に対しては、みんなで攻撃をすると?)
容赦なく攻撃を加える、排斥したくなる。
さらに言えば、はみ出る人がいなければ、はみ出る人を作ってしまう。

氾濫する“土下座” - NHK クローズアップ現代

 

森のコメントは半分直観みたいなものじゃないかと思うが、的外れと言い切れるだろうか。