トーキョーナガレモノ

日本映画の旧作の感想。でもそのうち余計なことを書き出すだろう。

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「フクシマ」後のゴジラ

東京・神保町の神保町シアターゴジラ誕生60周年と新作映画の公開を記念して「ゴジラ映画総進撃」特集を開催している。第1作「ゴジラ」(本多猪四郎監督・1954年東宝)から「ゴジラFINAL WARS」(北村龍平監督・2004年東宝)まで全28本を連続して上映している。

 

特撮・怪獣ものは固定ファンがついていて確実な観客数が見込めるので名画座の定番企画になっているが、東日本大震災福島第一原発事故後では今回が最初ではなかったかと思う。しかも3月である。テレビで散々「あれから3年」とか「いまだに避難生活を」とか「稼働再開への不安が」とかやっている最中に、放射能をまき散らし都市を蹂躙する水爆実験の申し子の映画をかけることに対して、「空気読め」という声はまったく聞こえてこない。大変結構なことである。所詮は映画だ。

 

ゴジラ性質は、太古の恐竜の生き残りが南太平洋の水爆実験の影響で凶暴な怪物と化したという出自から、しばしば核の恐怖の隠喩であると指摘されてきた*1。 たしかに54年のシリーズ第1作のヒントになったのは、ビキニ環礁の水爆実験に巻き込まれて乗員が被爆死亡した第五福竜丸の事故であり、制作者達にその意図があったことは確かだ。

 

しかし現実のメルトダウンを経験した我々がいま、この映画を改めて見るとき、我々はこの怪獣に核の恐怖が見えるだろうか? そもそも核の恐怖とは見えるものなのか、という思いがする。我々が2011年からいままで経験しているのは放射能で「汚染されること」の恐怖であり、イメージしがたいものをあえてイメージするなら、厳重に密閉された白い防護服で身を守らねばならないあの姿ではないか。

 

第1作目のゴジラは東京を蹂躙し、日本政府と科学者達が腐心して退治しようとはするが、東京の汚染を防ぐためにゴジラの上陸ルートを誘導したり、土壌を除染する場面はない。モノクロで撮られたこの作品で、上陸シーンが夜間に設定されたことは、戦時中の米軍の空襲から連想したものだろう*2が、これは炎上する東京を描き出すための演出であり、恐怖の焦点が徹底した「破壊」にあったことを示している。したがってゴジラ対策とはゴジラを武力なり科学力で一方的に撃退すれば事足りるのであり、撒き散らされた放射能の環境被害を顧みることはない。これは対策として間違ってはいない。いや、いなかったというべきだろう。それが核の恐怖=爆弾の恐怖だった時代の思考だったのであり、変わったのは我々観客の方なのである。

 

福島第一原発潜入記 高濃度汚染現場と作業員の真実

福島第一原発潜入記 高濃度汚染現場と作業員の真実

 

 

*1:例えば四方田犬彦「日本映画と戦後の神話」岩波書店、2007年

*2:以降、シリーズがカラー化するとスタジオの青空の下で怪獣プロレスが繰り広げられるようになり、怪獣映画は無邪気なものになっていく