トーキョーナガレモノ

日本映画の旧作の感想。でもそのうち余計なことを書き出すだろう。

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昼下りの情事 変身

涼子(青山美代子)はごく普通の会社の秘書課に勤めるOLだったが、病弱な父親と幼い弟妹を養うためスナックで夜のアルバイトをしていた。会社から帰ると、またアルバイトに出かける毎日。

 

アルバイトに出る道すがら、商店街の花屋で花を買っていくのが涼子の日課になっていた。内向的でおとなしい花屋の少年、純(風間杜夫)は美しい涼子に密かな憧れを抱いていた。

ーーお姉さんには、こっちの花が似合いますよ。・・・この花、僕の故郷に咲いてる花なんです。

ーー故郷どこ?

ーー南です。

ーー九州?

ーーもっと南。沖縄です。お姉さん、年いくつですか。

ーー23よ。

ーーじゃ、23本。

ーー悪いわね。

リンドウの花束を少しおまけして渡す純。

純は沖縄から上京してきたばかりで、兄夫婦の家に世話になっていた。年の離れた兄(高橋明)は片腕の元ヤクザで、「本土に復帰する前はあれほど騒いだのに、復帰してみたら誰も見向きもしやしねえ。組のために体張ったのに、シャバに出てみりゃ組は解散ときてら」と文句ばかりで何もしない。花屋は義姉・光子(絵沢萠子)と純の二人で切り盛りしていた。

 

涼子は花束を抱えてアルバイトに向かう。しかしそこは高級マンションの一室。シャワーを浴び、派手なドレスに着替え、きつめのメイクをして夜の女に変身する。スナックというのウソで、実は高級コールガールだったのだ。その秘密は家族も純も知らない。

 

夫とのセックスに不満な光子は密かに純と関係を持つ。光子に言われるままに無言で体を預ける純。乱れた性と孤独な生活の中で、純は涼子だけが心の癒やしになっていく。

ーー花は枯れるけど、人間は枯れません。でも、花は枯れた方が良いんです。

ーーそうか。花が枯れないとお花屋さんが商売にならないものね。馬鹿ね、あたしって。

 

ある日、涼子は会社の同僚、阿部(槇村正)からプロポーズを受ける。お父さんの病気も、きょうだいの面倒も大丈夫だという。「アルバイト」のことを考えて結婚に躊躇する涼子だったが、阿部に押し切られて週末に自宅へ訪問するを許してしまう。そんな二人のデートを陰からそっと見つめる純。

 

その日の朝、純は華道教室への配達でマンションを訪れていた。ふと上を見上げると、ベランダに涼子らしき女性の姿が見える。階段をかけ上がり、涼子の部屋を覗く純。そこには、禿げ頭のレスラー風の男に犯されて悶える涼子のあられもない姿があった。リンドウの花を一本ずつ道に棄ててマンションをあとにする純。

 

「アルバイト」を終えて涼子が帰宅すると、阿部が両親と談笑していた。もう結婚は決まったも同然だった。阿部を駅まで送る涼子。二人の後をつけている人影があった。その人影は涼子の目の前にまわりこみ、手に持ったナイフの一刺しで殺してしまう。血まみれで倒れる涼子を、純はいつまでも見つめていた。


 

風間杜夫は2007年のインタビューで、「昼下りの情事 変身」(田中登監督・1973年日活)について次のように語っている*1

・・・実は、この映画のクランク・インの時に、ムッシュ(引用者註:田中登のニックネーム)が、ほとんどの俳優を呼んで話をしたのを強烈に覚えています。その時に、ムッシュは、僕の役は沖縄から本土に来た青年で、年上の女性に犯される。そういう、一つの性の縮図の中に日本と沖縄の問題を考えてみたいと言われたときに、ちょっとびっくりしましてね。なんだ学生演劇みたいだねと思ってね(笑)。でも、そういう、一見青臭いような口実としてのテーマを持って来ながら、つくる映像がヘンに官能的なんですね。そういうオブラートにつつむような感じで、ムッシュの青年を通した世界の見え方、思いというものが強く出ていたような気がしますね。これは、僕の勝手な思いなんですが、あの当時、ムッシュもふだんは穏やかで、物静かな人でしたけど、内には、すごく鬱屈した、激しいものを抱えていたのではないかという気がします。ムッシュが、立て続けに三本、起用してくれた映画で、僕が演じていたのは、どれもすごく疎外され、屈折している青年ばかりですが、今、思うと、ムッシュは、けっこう僕が演じた青年に自を仮託していたところもあったのではないでしょうか。しかも、監督は、僕の中の本質的な部分を掴まえてくれていて、ずっと見守ってくれていたと思うんです。だから、あの三本のロマンポルノ作品には、ムッシュと僕との、そういう強い信頼関係が間違いなくあったと思いますね。

 

風間が言うように、沖縄と本土との関係を純という鬱屈した少年に表象させようとした田中登の試みは青臭いと言えるし、実際見てみるとこの試みは失敗していると言わざるを得ない。理由は単純で、純も兄もその家も、そうと言われなければわからないほど沖縄っぽくないからだ*2。だがそれはこの作品が失敗作であることを意味しない。

 

むしろ純の中に見えるものは、もっと普遍的な少年のナイーブさとその暴走である。涼子はたしかに家族と恋人を欺いていた。だがそれは家族が生きていくためであり、少年の一方的な憧れを裏切ったことに対する、犠牲となって贖罪する理由はないはずだ。

純も涼子も、ともにやり切れないものを抱えて映画は唐突に終わる。

暗い余韻を残す作品である。

 

Hotwax責任編集 映画監督・田中登の世界

Hotwax責任編集 映画監督・田中登の世界

 

 

*1:Hotwax責任編集 映画監督・田中登の世界」p.98

*2:逆に、沖縄と本土の関係というフィルタを通して作品を見ると、純の兄の失われた片腕は沖縄戦の多大な犠牲を暗示していることが理解できる