トーキョーナガレモノ

日本映画の旧作の感想。でもそのうち余計なことを書き出すだろう。

注意)本・DVDなどへのリンクはAmazonのアフィリンクです。ご了承下さい。過去記事一覧はこちらです。

サイン本は物神化する——追悼・鈴木則文——

トピック「本好き」について

本好きへの100の質問 にひとつだけ答える。

 057. サイン本を持っていますか?(タイトルと作家名は?)

数冊持っているが一冊だけ紹介しよう。

f:id:sny22015:20140811233715j:plain

楷書のサインに、「則文」の落款。いわゆるサイン本のイメージとは少し違う高級感がある。

「トラック野郎風雲録」は東映を主な舞台に活躍した映画監督・鈴木則文が、代表作「トラック野郎」シリーズ(1975〜1979年東映)の思い出と自身の映画人生を振り返って綴ったエッセイ集である。

刊行は2010年5月。このとき、出版を記念して、池袋の新文芸坐が「トラック野郎」シリーズ6本を含む鈴木則文の特集上映を企画した際に、売店で購入したものだ。デビュー作「大阪ど根性物語 どえらい奴」の面白さを知ったのもこの時である。

 

この本には多くのことを教えられた。たとえばシリーズ企画当時「仁義なき戦い」のイメージが強烈すぎた菅原文太に喜劇作品の主役を任せることを決意した慧眼。

仁義なき戦い』のコワモテの広島やくざ広能昌三から一転して『トラック野郎』の星桃次郎の喜劇演技への転換に驚かされたと多くのファンに言われたが、映画俳優菅原文太というカテゴリー(範疇)で考えられる限り何も驚くことはないのだ。彼の演技は極めて人間くさい感性と生命感が主体である。喜怒哀楽がはっきりしていて虚飾(いわゆるスター演技)を剥ぎとったストレートパンチであるから、生々しい人間性むき出しの人物像ならどんな役でも演じられるのだ。(p.46)

東北の生家をダムの水底に沈められた故郷喪失者、国土開発の犠牲者という一面を持つ星桃次郎の人物造形の着想の原点。

 某日——東京都下奥多摩小河内ダムロケーション。
 その日は、愛川欽也演ずるやもめのジョナサンの松下金三が春川ますみの奥さんと沢山の子供たちを長崎へ向かう途中(山陽路あたりのつもりの湖畔)で休憩を取るシーンの撮影である。
 紅葉した山々が静かな鏡のような湖面に映って美しい。
太陽が雲に隠れている間の待ち時間のひととき(撮影マンたちは"天気待ち"という)。
 歌碑らしきものが建っていて、キンキンがその歌碑を見ながらしきりに何かを手帳にメモっている。それは昭和十二年、ダム建設のため水中に没した小河内村の悲しみの詩歌を彫った石碑であり、赤い夕陽が悲しく照らす…さらば湖底のふるさとよ…というような美文調の感傷に彩られた詩であったが…満々と水をたたえた静かな湖面をちいさな漣をつくって風が渡り、その湖水の下に何事もなかったように平和だった萱ぶきの小河内村が水没しているかと思うと、帝国主義天皇制国家だったその時代、おそらく問答無用の公権力で村を追われたであろう人びとの悲哀が、私の胸を突き上げたのである。(p.16-17)

「トラック野郎」と同時代のプラグラム・ピクチャーとしてほぼ唯一のライバルであった松竹の「男はつらいよ」への賞賛。

[星桃次郎は]トラッカーになってからは、長距離が主体業務なのでテレビはほとんど視ず義理人情を熱く描く東映ヤクザ映画と松竹の『男はつらいよ』の熱心な観客であった。

 自分とは釣り合わぬ(高値の花が多い)マドンナに一目惚れになり、必ず失恋する寅次郞を観ていながら、必ず同じような運命を辿ってしまう桃次郎はバカの壁に取り囲まれているのか。どうして我が身に思いをはせないのかとお思いだろう。それが不思議なのだが、彼は<失恋の悲劇>がほとんど心の傷にならない希有のポジティブな性格の持ち主なのである。

 こっぴどく振られたように見えるが…彼はマドンナが自分の求愛を拒否したとは知らず…彼女の方に何か辛い事情があってのこと、たとえ恋人が居たとしても自分が惚れる以前からのことだから彼女の拒否に罪はない…と超好意的に解釈してしまうのだ。

 桃次郎の失恋に比べて寅次郞の失恋の痛苦ははるかに深い。その自分をごまかして陽気にふるまう寅次郞の姿は人の世のどうにもならぬ運命の悲しみに涙せずには居られない人生不条理の一断面である。

 それなのに寅次郞の物語はなぜ娯楽喜劇として成立し続けているのか。

 ずばり、それは妹のさくらの存在である。日本民俗学の泰斗柳田國男は『妹の力』という著述で沖縄の民話に伝わる英雄の兄を身命を賭して護る妹のことを紹介し、肉親の兄に合いを捧げる妹が、この存在すると記しているが…さくらは寅次郞にとって絶対に裏切ることなき女神の化身なのである。(p.123-124)

その鈴木則文は、1990年の「びんばりハイスクール」以来、病気で映画の現場からは遠ざかっていたが、2014年5月15日に永眠した。冥福を祈りたい。

 

写真に撮られると魂が抜かれると思うほど迷信を信じてはいないが、サインされた本にはモノとしての市場的な希少性以上に、著者の魂が吹き込まれた霊的なものを感じてしまう。著者がこの世からいなくなるとその感覚は強化される。それが敬愛する人物ならなおのこと(まあサイン本を求めるくらいだから敬愛はしてて当たり前ではあるのだが)。それを呪物崇拝とか物神化と笑うなら笑ってくれていい。

 

ただ、 少なくともこの本を捨てることも、デジタル化して「情報」に落とし込むことも、もはやできなくなったのは事実だ。

トラック野郎風雲録

トラック野郎風雲録

 
カテゴリー「読書」の関連記事

ブログトップに戻る