トーキョーナガレモノ

日本映画の旧作の感想。でもそのうち余計なことを書き出すだろう。

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みな殺しの霊歌

有閑マダムが、次々と殺される事件が起きる。被害者の共通点は、ある日マンションの一室で麻雀をしていたことだけ。麻雀仲間は五人。次の被害者が出るおそれが高い。だが警察の捜査は難航する。

 

新宿、とある大衆食堂。雨で客も来ない。店じまいをしかけていたところに、陰気な男(佐藤允)がのれんをくぐる。「もうおしまいなんですけど」「なんでもいいんだ」男はカツ丼を頼む。食堂の店員・春子(倍賞千恵子)は男に箸とフォークをそっと差し出す。川島、という名のその男が次々とマダム殺しに走る動機は一向ににわからないまま、春子と川島は交流を深めてゆく。

 

ところかわって、とあるクリーニング屋。北海道から集団就職で住み込み勤めに来て、理由もわからず自ら命を絶った少年の、位牌に線香を上げてやる川島がいる。しかし死んだその少年と、川島の接点は同郷だという以外にはない。

 

「あの子と結婚するのか。それならそれで、まじめに考えてほしいんだ。聞いたのか、あの子の兄さんのこと」

食堂の主人は春子の暗い過去を川島に打ち明ける。五年前、手のつけられないほどぐれて家族に暴力を振るう兄を絞め殺し、執行猶予付きの実刑判決を受けていたのだ。春子の心根の良さを知る定食屋の主人は、せめて春子に幸せな結婚をさせてやってくれと涙ながらに川島に懇願する。川島は店の壁を見つめる。視線の先には、警察の指名手配犯のポスター。だが一カ所だけ破り取られているところがある。その場所には本来、川島のモンタージュ写真があるはずだった。同じ頃、春子は荒川の土手になすこともなく佇んでいた。

 

指名手配犯・川島の孤独な逃亡生活は二つの出会いによって引き裂かれつつあった。一つは潜伏先の工事現場で出会ったクリーニング屋の少年、その突然の死、彼を死に追いやった五人の女への復讐。もう一つは、彼を逃亡犯と知りながらなお愛してくれる不幸な春子が望む平穏な生活。

 

「自首してほしかったのか」
「そうよ!自首して出れば五年か、長くても十年。それくらいならあたし、待っててあげようと思ったの・・・」

荒川土手の草むらで春子は川島を説得する。だが川島にはあと一人だけ、殺さねばならない女がいる。

春ちゃん、待ってくれ。一つだけ、明日の朝、明日の朝ここで会ってくれ!」

そう言い残して川島は復讐を完遂するために春子を置いてゆく。

 

翌朝、雨。約束の場所で春子は待っている。来るはずもない川島を。春子は川島とのただ一つの記憶である、ポスターから切り取ったモンタージュ写真を一度は破り捨て、そして再びつなぎ直す。

 

*

 

「みな殺しの霊歌」(加藤泰監督・1968年松竹)は何の映画か。人は山本周五郎「五瓣の椿」の現代的な映像化である*1と言い、またある人はフィルム・ノワールであると言い、またある人は超クロースアップと雨の場面を重視する加藤泰らしい作品であると言い、またある人は鏑木創のスキャットを多用した音楽が感傷的すぎると言い、またある人は大衆食堂、荒川といった舞台や刑事役の松村達雄、クリーニング店主役の太宰久雄といったキャストに松竹の下町もののテイストがある*2というだろう。

それはすべて正しい。映画の見方に正解はない。

 

 印象的なのは、この作品におけるモンタージュ写真という小道具だろう。春子は川島が氏名手配犯であることを悟られまいとして、川島の写真を破り取り、川島の社会的存在を消してしまう。やがてそれは、ラストシーンにおいて春子が大切に持っていた、彼女にとっての川島の唯一の記憶であることが判明する。その頃、川島はこの世からいなくなっている。人間としての川島が消滅している。

モンタージュ写真とは、相貌のパーツごとに他人の顔を組み合わせて作り上げたまがいものの顔である。まがいものの顔以外、春子と川島の間には何も残っていない。だから春子はまがいものと知りつつ、そこにしか思いを仮託することはできない。人と人とは、なんと弱い紐帯によって生きているのか。この場面はそんなことを問いかけているように思える。

 

加藤泰、映画を語る (ちくま文庫)

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*1:加藤泰、映画を語る」によると、もともとは「五人の女が次々と殺されてゆく話を作ってくれ」と松竹製作本部からの依頼を受けて加藤が「五瓣の椿」を連想したところから企画がスタートしたそうだ

*2:製作には山田洋次が参加している